2017年7月16日(日)に秋コレが企画した「AE86のデザイナーとハチロクについて語る86ファンのための集い」に参加してきた。
この日は、実際にAE86レビン・トレノのデザインを担当した、元関東自動車のデザインチームが当時の事を思い出しながら、時代背景や秘話などを話してくれるといった、興味深い内容だった。
時代背景
AE86の開発計画がキックオフしたのは1979年頃。まだ日本がバブルと呼ばれる時期に差し掛かる以前だった。その後、実際に開発がスタートした時、世の中はスター・ウォーズ、ひょうきん族、インベーダーゲーム、チョロQ、マクロス、ウォークマンが流行っていたらしい。
自動車開発をめぐる状況は、海外輸出を前提としたクルマ造りが企画段階で盛り込まれ始めた時代であり、様々な法規制や設計方法(CADによる設計の黎明期)が目まぐるしく変わりつつあった時代でもある。
関東自動車のデザインチーム
この日は、司会担当の笹岡さんが話をまとめ、満沢さん、伊藤さん、藤田さんがディスカッションしたり、会場の皆さんとYOUTUBEを見たり、比較的ラフな形でのミーティングだった。メンバーの皆さんは、当時はやり手だったのであろう、現在の口ぶりからも情熱と信念を感じる。
TE27から始まる、レビン・トレノの歴史
カローラ、レビン・トレノと言えば代表的なAE86以前に、TE27をはじめ、いくつかのモデルがあったが、その一部を紹介したい。
初代は2T-Gを積んだTE27。当時はギャランGTVやスカイラインなどが、走り屋たちに愛され走りのトレンドだった時代。司会の笹岡さんは、まだ中学生だったが満沢さんは、すでに開発に携わっていたらしい。
「この頃の一番の特徴は、メッキのスチールバンパー。デザイナーが素材を指定していた。AE86と比べ、樹脂を器用に使える時代ではなかったので、スチールのパーツがかなり多かった。ヘッドランプは既成品という事で“丸2灯”って呼んでいたやつなんですけど、デザイナーはヘッドランプの周りをどのように差別化する為に苦労していた。オーバーフェンダーは、最初はFRPで造ったんですけど、歪むため鉄板に変えた記憶があります」
若い世代の方は、オーバーフェンダーと言えばアフターパーツと思うかもしれないが、TE27が発売された1972年当時は、メーカーが純正品として製品化していた歴史がある。
その後、TE37&TE47など、幾つかのモデルチェンジを経てAE86に至るが、この頃、日本は海外連携を強め、設計方法や自動車をめぐる法規制の改正など今よりも目まぐるしく状況の変化があったらしい。
AE92、AE101
本題に入る前に、AE86発売後のレビン・トレノの動向を追いたいと思う。次期モデルとしてAE92が発売され、FF化、スーパーチャージャーが搭載され、車の指向性も大きく変化していく。
またAE101の時代になると、デザインの傾向が変わり、キャラクターラインよりも、車の表情の変化や形を重要視するようになっていった。
この流れのひとつが“悪魔のデザイン”と呼ばれたカリーナEDで、4ドアだけど2ドアに見えるといったシルエットのデザインだった。カリーナEDについては、メーカーも驚くほど売れたという逸話が残っている。
しかし、この時代から徐々に、RV車人気に押されて、残念ながらスポーツカーは減少していった。
AE86はジウジアーロのデザイン??
さて、AE86についての話題、本題に入りたいと思うが、昔からAE86はイタリアのジウジアーロによるデザインなのか、話題になる事がしばしばあったらしい。これついて回答してくれた。
「彼はタッチしていません。当時の日本は、我々の世代の一つ上の世代の先輩方が、海外に出向いて自動車デザインとは何たるかを勉強して、日本でそれを活用し始めた、ヒヨッコな時代だった。そんな時にジウジアーロのデザインを見て、デザイナーの誰もが驚愕していました」
この頃のジウジアーロと言えば、自動車のみならず時計など様々な分野で最先端を走っていたデザイナーで、日本のデザイナー達が意識するインフルエンサーのような存在だったらしい。
はじまり
「関東自動車がデザインを担当する事がなって、すごく光栄に感じました。真っさらな状態であるが、当時のセダン(FF)と全く異なったデザインにする訳ではなく、カローラシリーズとして、デザインテイストの共通性を持たせる事も必要で頭を悩ませた」
レビン(稲妻)・トレノ(雷鳴)は、当時のトヨタの社長(豊田英二さん)が命名したらしい。「大人しい顔をしてるけど、よく走る車よってのがコンセプトでした」
「この時代はレビン、トレノはちょっと影が薄かった印象だったかもしれない。当時シルビアなどのハードトップ系が流行り始めていて、スペシャリティーカーという呼ばれ方が、時代のキーワードでした」
製作工程、ノッチバック、ハッチバック
当時は自動車を造るにあたり、製品企画室の方から企画書をもらっていたらしいが、当時の記憶を元に、笹岡さんが、その企画書を再現してくれた。
「2ドアはエレガントなノッチバック、3ドアはスパルタンなハッチバック。その頃から空力はうるさく言われてまして(笑)全体的なデザイン条件としてプレスドア(一体物でプレスして作るドアの事)それでやれと。それで、ウエストラインって言うのがポイントが高くて、これが上か下か傾いているか否かで、これでデザインのテイストが変わってしまうほど重要。それとホイールベースと全長はこんな感じ。リトラクタブルヘッドランプを使っていいよ。というような、命題をもらいデザインをはじめました」
「レビン・トレノは、トヨタのカローラシリーズの一部なんですが、国際戦略という位置づけでして。したがって海外への輸出が前提となっていた。こうした背景の中でデザインや性格付けがされた」
デザイン着手
製品企画をもらい、デザインをするにあたってまず悩んだ事があったそうだ。
「レビンとトレノの差別化が難しかった。リトラクタブルヘッドランプは製品企画の段階で決められていて、当時は新しく、フロントを低く見せる事ができ、ひとつの目玉となったが、レビンをどうするかとなった時に悩んで。結果、グリルで違う形を見せるという話になりました」
どこまでがデザイン?
レビン・トレノの時は、CADのオペレーターと協業したが、かなりの部分が手書きだったそうだ。クレイモデルを作り、その形状を確認して、線図化して型を作って製品という工程だった。
「全体形状は線図で表現し、部品はモールからステッカー文字まで図面化した。外装も内装も。一言で言うと見える物はすべてデザインだった。例えば、エンジンのヘッドカバー、内装はもちろん、天井から床、ノブひとつまでデザイナーの責任でした」
もちろん、当時そうではなく分業されていたメーカーもあるかと思うが、レビン・トレノの場合は、グラフィックデザインの領域や構造、設計領域も、デザイナーが一部担当していており、その素材まで指示する事があったというから驚きだ。
しかし、見方によれば巨大な組織で、細部に渡る分業よりも誰かが責任を持ってプロジェクトを進行、統括し、製品化する事の方がうまくいくケースもある。これは組織で歯車の一部になった者なら理解できる事だと思う。
丸いデザインのライトスイッチ
来場者から、どうしてライトスイッチはくるりと回す方式なの?という質問があった。たしかに、もう見ることのないデザインで独特である。
「デザインのエゴですね(笑)あの頃は、丸型のメーターが一杯ついているのが一つのステータスだったんです。丸い物を付ければいいという風潮があったのかもしれません。今の人は運転できないって意見がありましたね?今はグローバル化になって、世界各国、ワイパーはここですよ、ライトはここですよって決められてきているものですから、出来ないと思うんですけど、あの当時はなかったもんですから、デザイナーのエゴも通ったんですよね。逆に言うとすごい大変貴重な存在かもしれないですね」
カラーリング
また、AE86と言えば印象的なカラーリングも特徴のひとつ。このカラーリングはどうしてこうなったのかという質問もあった。
「カラーリングはTE71の印象が強かったんですね。ツートンでも真っ二つに分けるのではなくて、黒のライン、白、黒という考え方を取入れることで差別化を図り審査を通したところ、採用されました」
それぞれの想い
会話中にそれぞれ、当時のクルマ造りに対しての想いを語っているシーンがあったのでまとめてみた。
藤田さん
「デザインコンペに最終的に通ったが、出す前は、サンプルとなるモデルを黄色に塗っていました。カラーを担当する専門の部門からの意見もあって。ノッチバックでシルエットはセダンなので、若々しさを強調するために黄色に塗っていたんですが、当時のデザイン審査はシルバーが多かった為、結局シルバーに一日で塗り替えた記憶があります。あと、可動グリル。後にエアロダイナミックグリルと命名されたんですが、ラジエターの水温に応じて開閉するグリルなんですね。以前からアイディアはあったのですが、この形で実現したのは初めてだと思います」
可動グリルを実際に見た人は少ないのではないだろうか?こうした、秘話的な話も非常に面白かった。
伊藤さん
「当時トヨタにないものを出したかったが、クライアントはトヨタなので、トヨタのデザインテイストから外れることはできない。そんな中でどれだけ自分たちの考えがデザインに反映させるかでした。
トヨタのデザイン部も私たちにトヨタにないものを期待していましたし、私たちもそこに関東自動車の存在価値があると考えていました。どれだけオリジナリティを出せるかが勝負だったんです。
あと、当時はいかに、ボディーをスリムに見せることが課題でした。明るくクリーンなキャビンが主流だったんです。今は逆で、キャビンが潰れないようようなコンセプトですね。ピラーが潰れないような構造で、キャビン周りをしっかり造るってのが主流ですね。
物を造る人って結局、図面とかモデルよりも製品が出来上がった時が、大変(嬉しい)なものなんですね。ですから当時は、これデザインなの?って言われる部分も、それがデザインだったと言える事に、嬉しさと誇りがありましたね」
笹岡さん
「38年でした?それだけ経ってもこれだけの人がお集まりいただける現状です。前期、後期。現場で言うと、オリジナルとマイナーチェンジバージョン。やっぱり有名にしてくれたのはイニシャルDでしょうか。あと、AE86を使って色々レース活動をやってくださる方が一杯いて、ハチロク人気を支えてくれたと思います。世界中で未だに、AE86がカスタムされたりしていて。すごいなこの車と思う。愛されてるんだなと感じます」
満沢さん
「当時は、若いデザイナーの方達が集まっていたが、こういう風にしよう、良い車にしようというベクトルが合っていた。そこが一番大事で、各々がバラバラだと決して良い物は造れない。デザインというのは、デザイナーの人物像や性格が不思議と、どこかに反映される。AE86は彼らの魂が込められた作品。そういうところがユーザーから支持されたのかもしれないですね」
ミーティングを終えて
これらは、40年近くも前の話である。当時の話との事で、もう少しアバウトな内容なのかと思っていたが、関東自動車のデザイナーの方々は、開発に関わる事を2時間ほど話してくれた。おそらく、開発者の皆さんにとっても、AE86の開発は人生において貴重な体験だったに違いない。
また、モノ造りに対する、その熱意、情熱、信念はこれだけ年月を経ても変わらないようだった。
昨今の車と比較すべきではない事は確かだ。経済、社会風潮、法規制、グローバル化。
しかし、ビジネス視点とは別にして、いつになってもクルマには夢があってほしい。
スライド画面の引用元:モーターファン別冊 LEVIN/TRUENOのすべて